2008.03.19

相楽総三の件と統制

0318【赤報隊相楽総三処刑から140年 来月3日に記念講演】長野日報
当方、ずいぶん以前から思っていたこと何ですが、うえの記事にみえる相楽総三偽官軍の件。

これって「さきに一度許可した年貢半減令が新政府にとって都合が悪くなったので、体よく相楽総三をスケープゴート(生贄)に仕立てたのだ」なんて説かれ方が一般な説(巷間に流布している説)なんだとは思いますが、私的に松尾正人編『幕末維新論集(6)』吉川弘文館『幕末維新三百藩諸隊始末』新人物往来社ほかを読む限り
「偽官軍とか言い出す以前に、統制外の行動なら普通にとっちゃってるよな。相楽総三の一番隊って」
と思うんですが、この私の認識って"変"ないし"誤解"なんでしょうか?

一糸乱れぬ近代兵制、みたいなものを当時の近世末期の軍隊にもとめるつもりはサラサラありませんが(昔の軍令違反なんて珍しい例じゃないですし)、統制外になっているのもまた事実。

偽官軍として処断が適当かどうかは兎も角、端から見ても「大なり小なり、そりゃ罰せられるがな。(´・ω・`)」とは思います。

"処罰の軽重"が問題なのだろうか?

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2008.01.28

当の本人たちが喋っていたわけでもなし

01.27記【新婚旅行、日本初は小松帯刀? かごしま探検の会
龍馬の10年前、霧島へ
】373news.com
帯刀はこの経験を龍馬に教え、勧めたのではないか」と推測。
無駄にマジレスをしますと「帯刀にせよ、龍馬にせよ、当の本人達には”これが新婚旅行だ”なんて意識、ハナっからないと思うんだ」、オレ。(´・ω・`)

坂崎紫瀾が「ホネムーン」(新婚旅行)とか言っているだけで、当の本人たちはせいぜい夫婦旅行(件記事の帯刀の場合は、親も一緒みたいなので普通に考えれば"家族旅行")程度だと思う。

ただ"後付けの設定"にせよ、一般に認められさえすれば殆ど”公式設定”になるのは世の流れ、イチイチ突っ込んでもしょうがなし。

我ながら無粋な書き込みでスマン。

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2007.11.18

平家物語の成立年代

11.17記【平家物語:成立年代の謎、火山研究で迫り成果…鹿大准教授】毎日jp
うえはいつものように18日朝Wiiニュースチャンネルにて見かけました記事です。

この記事本文にみえる
火山の科学的研究が古典文学のなぞに迫るユニークな成果となった
という点(ユニークだという点)には同意しますが、長門本『平家物語』にある霧島噴火記事(大山震動して岩崩れ、めう火もえて、ことに煙りうずまきて、暫ばかりして、廻り一二丈そのたけ十余丈ばかりある大蛇の、角はかれ木の如くおほひかかり、眼は日月の如くかがやきて、大にいかる様にて出来給ふ)を溶岩流の描写として「実際に目撃したか、それに近い人物でないとここまで記述できない」とするのは正直いささか急ぎ過ぎじゃなかろうかと思いやす、先生。

無論、溶岩流を大蛇に見立てること自体不自然とは思いませんが、それを「実際に目撃したか、それに近い人物でないとここまで記述できない」とするのはまた別問題かと(平家物語の成立に廻国僧が関わったとみるなら尚更)。

しかし、「長門本成立を1235~45年ごろとすれば、平家物語原本の成立はそれより前になる」という説自体に無理はないと思うので(ここまでの書込みを台無しにする結論)『六代勝亊記』との関係上、原本はだいたい元仁〜文暦(ないし嘉禎元年)ごろの成立とみていいんでしょう。

すると物語上、後鳥羽院への筆致が妙に辛いのもまた何となく頷ける時代(後堀河天皇〜四条天皇期)ではありますな。そりゃ生霊にもなる(笑)。

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2007.11.16

『新葉和歌集』注釈本が欲しい

11.14記【龍馬さん 誕生日おめでとう-マイタウン高知】asahi.com
さて昨日は我らが(?)坂本龍馬さんの一般見解でいうところの誕生日&命日だったわけですが、うえは一方の誕生日にちなんだ記事であります。

要は高橋信裕という方が龍馬の生まれたまち記念館に『小笠原諸礼集』と『新葉和歌集』を寄贈したという記事なんですが、記事によると両書はともに江戸期の写本と版本のこと。

私の場合『小笠原諸礼集』にせよ『新葉和歌集』にせよ、その書誌につまびらかでないのでアレなんですが、現代の古書店でなら十数万から数十万くらいはしても良さそうな品ですよね(無論、相場もよくしらないんで保証はしませんが)。

両書が江戸期の何時頃の写本および版本かまでは記事からだとわかりませんが、いつにせよ龍馬さんの生きた時代に近接はしてるハズですから、その点も何やら味わい深いお話です。

なんとも粋なはからい。

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2007.11.06

あくまでも「話しのタネ」レベル

11.05記【竜馬は156-169センチ? 歴史人物の身長、肖像画で推定】NIKKEI NET
矢崎さんは「推定身長なので誤差があるが、歴史を楽しむ方法としては面白いと思う」と話している
この記事について、「わざわざ"推定"なんぞせんでも、京都国立博物館所蔵の龍馬紋服からわりだしたデータ(約172cm)があるだろうに・・・」と思った人、挙手。ノシ

一応「歴史を楽しむ方法としては面白いと思う」って意見には私も同意しますが、このさいに推定材料としてつかう「肖像画などで人物とともに描かれている着衣や所持品」って、時代あるいは地域によっても当然基本寸法は違いますから、ソコら辺の折り合いは基本的にはどーすんでしょう?

絵画資料にいたっては表現上の問題(誇張表現などなど)もあるでしょうから、「あくまでも推定、こまかいことは気にしない」って認識でおk?

あくまでも"ネタです"と、「君は!」(某T御大節)。

書込後追記:11.05記【竜馬は169センチ? 信玄162センチ 「淀の方」も長身】MSN産経ニュース
「淀の方」は着物の襟幅と肖像画から約168センチと推定。[中略]加藤清正は肖像画の扇子から、[中略]159センチと計算した。
……。

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2007.09.27

勢いだけで"説"を語られても退く

09.26記【日本最古の木製仮面、奈良で出土…クワを再利用】YOMIURI ONLINE
上掲「YOMIURI ONLINE」の記事に言及はないんですが、NHKや他の新聞社配信記事(例1例2)なんかみてますと、「牽強付会、話題性ばかり優先してるだろ」とか思っちゃうくらいに、邪馬台国やヒミコと関連づけて報道してますね。

昨夜たまたまNHKの報道番組をチラ見したんですが、まずこの面が「追儺」のさいに使われたものだろうという"説"を紹介し、さらに中国伝来の行事という点から魏と交渉のあった邪馬台国とも関連づけ邪馬台国畿内説(箸墓古墳=ヒミコ墓所 説)の補強材料みたい報道してました。

とりあえず「新説好きのNHKらしいなぁ〜」とか思ったんですが、ひょっとして民放各局も同じようなトーンなんでしょうかね?

だとしたら"軽薄"に過ぐ。

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2007.09.21

「不十分」との意見は百も承知

09.20記【明治天皇陵など調査を“解禁”へ 宮内庁が方針転換】中日新聞
調査できる範囲は限定的だが、研究テーマを問わず申請があれば審査の上、調査を受け入れるよう方針を転換した
いやはや正に英断、この決定には賛辞を素直に贈りたい当方です。

陵墓の問題については考古学者から歴史学者、作家から一般人素人まで、史跡・文化財・祭祀施設などなど、どの部分に比重をおいて見るのかは人によってほんと区々区々(ククマチマチ)。

一方、調査される遺族側(皇室など)の身になってみれば、「陵墓は諸研究のため積極的に調査されるべきだ」なんていう意見自体、いくら天皇が国の象徴とはいえ、天皇個人以外(たとえば皇籍離脱者など)にもかかわる問題だけに、所詮は要求者の"エゴ"でしょう。

「現状のままで良い」とも思いませんが、かといって唯々諾々と安易に「調査をさせるべきだ」とも思わないので、ここら辺は「もう少し”話し合いの場”でも設けたほうがいいんじゃね?」とか思ったりする今日このごろ。

もっとも、言うほど簡単にも行きませんがね。

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2007.07.11

「心配り」とか「協調性」とかは不安

07.10記【豪腕大老、繊細な面も? 通商条約めぐる新記述】中国新聞
井伊直弼にたいして持っているイメージ、それは歴史にライトな方からヘビーな方まで、あるいは世代などによって当然さまざまでしょうが、一昔前にくらべれるとかなり"改善傾向"にある人物ではありますやね。

上の件の記事に曰く
「安政の大獄などから、豪腕をふるう強権的な人間像が描かれてきた直弼だが、繊細な一面もあったことがうかがえる」
とのことですが彼の場合、和歌や茶の湯など、趣味の方面に"風雅"を好んだのは有名な話で、こと茶の湯にかんしては"玄人裸足"の実力とかどーとか(茶の湯に関する知識が乏しい私には判断はできません)。

まぁ、趣味でもって「繊細か否か」を論じるのは迂闊ですが、"繊細な感性も求められる趣味"ということで、人間性をうかがう材料の一つにはなるでしょう。

そんな彼について「弾圧を実行した大悪人」と視るか「開国を断行し危機を救った大恩人」と視るかは兎も角(どっちにせよ極端にすぎる意見)、記事中の
史料には、側近から「諸大名の承認のない調印に批判が生じる」と指摘された直弼が「其所ヘ心付不申段ハ無念之至(その点に気付かなかったのは無念)」と後悔したとする記述があった
について、思わず「普通、気づこうよ、ソレくらい」とツッコミたくなった今日このごろです。

本気(マジ)で言っているのか、あくまでも言い訳として"とりあえず"口走っただけなのか、一寸だけ気にはなった。

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2007.04.30

「考龍馬伝」-友と同志と-(転載)

今日は当方がサイト「龍馬堂」のコンテンツを更新しましたんで、今回のブログはソチラからの転載であります。

まぁ「お茶をにごしてる」だけともいう。
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 脱藩から西国方面の遊歴をへて、京坂でしばしの潜伏後、龍馬は土佐藩主山内豊範らの入京と前後するように江戸下りの途についたことは既にのべた。

 論証資料が伝記によるという制約上、この八月東下説にいささかの不安はないでもないが、目下のところ矛盾する他史料も見当たられないので、ここまま論をすすめたい。

 既記以外の龍馬にかんする話題としては、土佐勤王党員らを中心としておこなわれた翌閏八月の本間精一郎殺害事件において、後世「人斬り」の称で知られる岡田以蔵が龍馬の佩刀「肥前ノ忠広」を借用・使用し、その鋩子を破損したむねが五十嵐敬之の伝聞として伝えれている。

 これを松岡司氏は「半平太の差料のあやまりであろう」(『武市半平太伝』)としているが、五十嵐によるとこの刀は維新後「九段の遊就館に陳列せられて居るとのこと」。

 現在も遊就館にこの刀がのこされているのかは知らないが、五十嵐の証言が自体が又聞きとおぼしいうえに、武市の日記にも以蔵に刀を貸していたむねの記事がみられるので、ここは松岡氏の意見に賛意したい(小美濃清明氏が記すように「兄権平の大事にしていた刀を龍馬が貸すだろうかという疑問が残る」(『坂本龍馬と刀剣』)とも私的には思えるので)。

 さて、伝記のつたえるところよれば、龍馬は江戸到着後、千葉重太郎方に居候したとも「東府芝金杉、内田某方に潜居後、千葉周作方に寄」(『土藩坂本龍馬伝』)ったともいう。後年、千葉佐那が「再び私の道場へは姿を見せませんでした」(「千葉灸治院」)と回顧しているのをあわせ考えると、後者の説にやや分があるだろうか。

 翌閏八月から九月ごろ、当時江戸で土佐勤王党の幹部として活動していた間崎哲馬の漢詩に「与、門田為之助、坂本龍馬、上田楠次、会飲ス」との端書きがみえ、ようやく同時代史料から龍馬の足跡が確認できるようなる。したは九月十日付同人書簡の一節だ。

●村田忠三郎宛間崎哲馬書簡
此地[江戸]、[上田]楠次兄弟、[門田]為之助、外輪にては龍馬。いづれも苦心尽力、小子事も無事に周旋。
 この書簡は勤王活動の近況についてほうじる大雑把な書簡なので、具体的な龍馬の活動内容がつづられているというわけではないのだが、脱藩・京坂遍歴後も土佐勤王党とは相変わらず"活動の線"で切れていないことが察せられる。

 やがて十月下旬には三条実美・姉小路公知両勅使にしたがい、武市半平太ら多数の土佐勤王党員が江戸に到着。龍馬は翌月の十一月十二日、半平太と同道して当時横浜夷人館の焼討を計画していた久坂玄瑞・高杉晋作と面談。翌十三日から半平太の同計画にたいする防止活動が本格化することから推して、両者は十二日の会見において計画の実行を知った乃至は確信したものと思われる。

 さらに十三日深夜から十四日未明、長州藩の周布政之助が蒲田村梅屋敷にて土佐藩老公山内容堂を侮蔑した言が問題となり(所謂「蒲田梅屋敷事件」)、土佐藩・長州藩の外交問題が勃発。事件はさんざんゴタゴタしたあげく、現場のちかく(別邸)にはべりながら咄嗟に抗議の声をあげえなかった下士勤王派の責任問題にまで事件は飛び火。

 これが小笠原唯八や乾退助など容堂側近派の問責するところとなり、事態は間崎哲馬・門田為之助・岡本恒之助ら三名の切腹をもって収拾をはかることと決まった。十八日にひらかれた下士勤王派の会合は、そのまま三士との別れの宴になろうかという寸でところ、武市半平太が山内容堂の「他日我が馬前に死せよ」(『維新土佐勤王史』)という言質をえて会合の場に到着。三士の切腹はとりあえず回避された。

●『皆山集』より
坂本龍馬等も亦密会す。龍馬、脱走中なれとも私に品川にて周布等に談判の際、列席せし事あるをもてなり。
 間崎哲馬・門田為之助・岡本恒之助らは皆、龍馬とは旧知のあいだがらである。龍馬が亡命者の身をかえりみず、会合に参加した背景には友人にたいするそれ相応の焦燥が察せられよう。

 ちなみに下記の漢詩はさきにも一寸ふれた間崎哲馬の漢詩本文。この詩自体、龍馬のために詠まれた詩とはいえないが、龍馬の立場で享受してみるのも案外おもしろい内容ではある。

●亢龍喪元
 匡時壮略少知人 匡時、壮略、知る人少なし 
 相遇作歓相対悲 相遇ふて歓を作し、相対して悲しむ 
 為酒典衣非俗態 酒の為衣を典するは俗態に非ず 
 因人成事豈男児 人に因って事を成す、豈男児ならずや 
 花柳依稀京国夢 花柳依稀、京国の夢 
 風濤淅瀝虜船旗 風濤淅瀝、虜船の旗 
 繁華消歇眼前事 繁華消歇、眼前の事 
 休唱江門新竹枝 唱ふを休め、江門、新竹枝 

(平成十九年四月二十九日記)
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2007.03.03

タイミングとしてはドンピシャリ

03.02記【天皇陵級に横穴式石室、高槻・今城塚古墳で基礎確認】YOMIURI ONLINE
03.01記【大王の石室支えた基盤発見 大阪・高槻の今城塚古墳 - 社会】asahi.com
去年(平成18年)福井県へ旅行に行ったさい、継体天皇ゆかりの神社など(足羽神社ほか)では、今年が継体天皇の即位からちょうど1,500年にあたるとかいう掲示や宣伝をしているのを見掛けました。上の件の記事もタイミング的にはタイムリーな話題を提供してくれたようで、関係する地元としては何よりでありましょうか。

この今城塚古墳、石棺のおさめられていたとされる部分は既に地震のため、過去に崩壊しているとのことですが、個人的興味としては継体天皇個人の系、後継者(安閑・宣化・欽明)の二朝並立問題など、系譜に関連する遺物がなにかのこっていないか、それが一番に気になる今日このごろです。

記事をいくつか読んでますと、天皇陵の管理問題もふくめて古代史に一石を投じそうな今回発見だけに、今後の展開が楽しみであります。

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2007.02.06

一般うけとしては地味、されど・・・

02.05記【「近代産業遺産」選定へ、経産省が産業史関連施設から】 YOMIURI ONLINE
例えば、「幕末から明治にかけ、九州や山口県で積極的な西欧技術の導入、改良が行われ、
と、上記の部分が幕末維新にかかわっていることもあり、むしろ掲示板の方へ書き込もうかとも思ったんですが、今回は幕末維新に限定された話題でもないので、とりあえず当ブログの方にカキコ。

要は「地域の歴史遺産を経済や教育の活性化につなげようと」いうことで、記事の見出しにもあるとおり「近代産業遺産」 を文化財指定とは一枠別に選定しようじゃありませんか、というお話みたいです。

個人的には該地域に住んでいない故もあって、「近年、[中略]国民の理解が深まりつつある」という実感も特にないんですが(むしろ一部では「近代化なら明治政府でなくとも可能だったハズ」なんていう、乱暴ないし短絡な意見すら聞く)、かつて鉱物資源の比較的豊富だった県の人間としては「一寸面白そうな案ですな」とは思います。

一般にもわかりやすい「幕末維新の動乱」とかいう種の"ハデさ"には欠けますが、地味ながらも重要な歴史、大切にしようという気運自体は嬉しかったりもする。

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2007.02.02

番組にあわせたかのように発掘

02.01記【7世紀前半の石垣や建物跡 奈良、蘇我入鹿邸の一部か】京都新聞電子版
02.02放送予定【NHKスペシャル|大化改新 隠された真相〜飛鳥発掘調査報告〜】NHKオンライン
ドモ、昨日は夜おそくにRSS配信にて知ったんですが、任天堂のホームページにおきまして某ゲームの公式サイト2種類もオープンしたことにより、一時アドレナリンが出まくりだった松裕堂です。無論、上の記事とは何の関係もないです、ハイ(余韻にまかせて書きたかっただけ)。

んで、話は変わりますが、今朝いつものように早朝ランニングより帰宅後、朝飯をとりながらWiiニュースチャンネルなんぞ流し読みしたんですが、そこで上の件の記事に目がとまり「そういえば今日はNHKで、大化の改新関係の放送があったような、なかったような」と思いだし、とりあえず検索なんぞかけてみました。

番組の説明によると「次々に発掘される遺跡は、史実とは異なる真相を物語りはじめた」とかいうことで、番組の内容ないし傾向はこの時点でほぼ察せられますが、殊に古代史の場合、史資料の解釈がその歴史観の形成にあたえる影響が他の時代の比ではないので、ここら辺は史家や研究者によって温度差が激しすぎる部分ですやね。

当方も時間に余裕があれば「『日本書紀』を古代中国語の音韻・語法から分析する最新の研究など」の部分に期待して、店の事務所に待機しつつ視聴するつもりですが、ただ”煽るだけ”の内容になっていないことを祈ります。

ところでこの番組の構成って誰なん? ('A`)ソレニヨッテ信頼度モカワリマスシ

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2007.01.13

「自己とゆかりのない家紋に抵抗はないん?」とか思った

01.11記【戦国武将グッズが人気 ゲーム影響、ファン拡大】Sankei WEB
人気のゲームやテレビドラマの影響を受け、若い女性らの購入も多く、ファンの裾野が広がりをみせている
要約すると「フジョシ(両義にとれるよう敢えてカタカナ)人気は偉大だな」ってことでおk?

幕末の場合、似たような事例は新選組において顕著な気もしますが、個人的には「楽しみ方は人ぞれぞれ」ということで、史実と創作を混同でもしない限り、細かいことは (゚ε゚)キニシナイ!!

群雄割拠の戦国時代には、日本各地で“郷土の英雄”が輩出した
郷土の英雄ですか・・・。戦国時代(仮に応仁〜慶長年間)に、先祖が現在自分の住んでいる地域に居住していなかった場合なども考慮すると、微妙に違和感を感じる言葉ですな。

"現住地"を基準に郷土を考えるのか、"戦国時代当時に先祖が居住していた地域"を基準に郷土を考えるのか、はたまた近世に移封してきた大名家を郷土の英雄とみなすのかなど、パターンが多くて悩ましい(笑)。

私の場合、現住地に由来する浅利氏安東(秋田)氏にしろ、先祖由来の九戸氏南部氏にしろ、近世秋田の佐竹氏にしろ、所謂"中央志向型の英雄"たちとは趣きが異なるので、どうしても地味目にながれち。

無論、上記の大名家は個人的に嫌いじゃないですし、むしろ歴史的興味なら中央の諸勢力より上だったりする当方(根本的に、最近は戦国時代に興味が薄いというのもありますが)。ただ記事のような書き方で「郷土の英雄」とかいわれても、正直微妙な違和感はある。

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2006.11.19

文久二年の潜伏

本日は当方がこことは別に運営しているサイト「龍馬堂」のコンテンツをば更新したわけですが、ついでにブログの更新をかねまして、下記事はそこからの転載です。とりあえずこの場の茶を濁してもみる。

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 さきの項でもふれたように、下関で沢村惣之丞とわかれた龍馬は一人九州へわたった。

 伝記はこの点を、主に”河田小龍の感化による薩摩藩行き”として記述するが、当然視察は薩摩一藩にかぎったものとは考えにくく、他の雄藩や長崎など、九州各地をまわったであろうことは想像にかたくない。

 また、文久元年(1861年)から二年(1862年)春にかけておこなわれた龍馬自身の「剣術詮議」の例から推して、今回も武市半平太による文久元年西国探索と同様ないし相似ルートが想起される。

 伝記以外の異伝として『涙痕録』は脱藩後の動向について「宇和島より九州地に渡り更に転じて、長州に入り久坂玄瑞と謀る所あり、大阪に来りしなり」と伝えており、ほかにも四月には浪華にはいっていたとする『土藩坂本龍馬伝』の説や、三月に住吉へきていたという『勤王者調』の説がある。

 これら異伝にたいする見解としては、さきに別項で述べた理由にもとづき、私的には「関雄之助口供之事」をある程度信用している立場上、その内容・記述とも矛盾しない、伝記資料にそって以後筆をすすめることにする。

 (『涙痕録』の説では移動行程が「関雄之助口供之事」と齟齬し、『土藩坂本龍馬伝』・『勤王者調』の両説では三田尻到着後の行動とすると、時間的にあわただしいかの観がある。
 両説にみえる大坂入りは、後述する『小原興一郎雑録』五月朔日条にもとづく誤伝ではなかろうか)

 九州歴遊から本州にもどり、さらに上国へとむかった龍馬は文久二年六月十一日、大坂へ到着。住吉大社の通夜堂にて一夜をすごし、参詣人のため眠りから覚め、退散したなんて話がつたわっている。

 その後、京都の沢村惣之丞、住吉の望月清平らと連絡をとり、上国の形勢や吉村虎太郎、吉田東洋暗殺後の諸情報を得、龍馬は即日京へとはいった。

 このさい龍馬は田中作吾(望月の使い)から東洋暗殺の容疑者として、自身がマークされていることを告げられる。なお東洋暗殺の容疑者という点で、龍馬についてあげられる史料には下記などがある(ちなみに吉田東洋が斬られたのは文久二年四月八日)。

●『安岡文助日記』より
[文久二年]四月八日 [安岡]嘉助、大石団蔵、那須信吾、坂本龍馬、亡命
●『小原興一郎雑記抄』より
[文久二年四月]十日 巷説に云、右狼藉[東洋暗殺]者は佐川殿[土佐藩家老佐川深尾家]藩中也と。又云、軽輩弐三人過日亡命之者立帰り来りて討つ共云。
●『小原興一郎雑録』より
一、五月朔日、御国元より下横目来候処、坂本良馬・大石団蔵・弘光銘之助、去る[四月]九日、別枝口を出、同廿八日頃大坂へ来り候趣、[中略]是は御国元にて御疑念相立候子細有之人也。
●『真覚寺日記』より
今日迄[文久二年四月二十日]、吉田[東洋]を殺したる人、すべて知れず。[中略]近頃、本町の坂本某[龍馬]を始め、出奔せる者多けれども、吉田を打たるならんと疑ふべきは壱人もなし。
 情報の正誤、容疑の強弱は兎も角、所謂”重要参考人”の一人として、ひろく注意されていたことは伺える。

 もっとも、藩政府は既に那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助らを去る五月中旬、容疑者の最有力として特定しており、六月時点における龍馬にたいする探索は、いきおい暗殺者のソレというより脱藩者にたいするソレであったろうかと思われる。

●四月二十六日 江戸留守居役より幕府老中宛 届出
 吉村虎太郎、大石団蔵、弘光銘之助、宮地儀蔵、坂本龍馬、沢村惣之丞。
 右名面之者共、土佐守領分に罷在候郷士、并庄屋、寺院等之家来に御座候處、三月上旬より四月上旬迄之中、銘々住所立出罷歸不申候。親族共心寄相尋候得共行衛不相知趣申出候に付、猶於其節取調候處、何れも土佐守領分致出奔候體に相見え候段、国許より申越候。此節極之儀に付、御内聞被成置候様仕度、右之段私より申上候。
 京都へはいった龍馬はここで江戸から土佐へ帰国途中の大石弥太郎に再会し面談。佩刀(拵)の不格好を怪しまれ「縁頭を売り、旅費に宛てたり」と答えたという話や、藩主の入京にさきだって宿舎候補の妙心寺へ検分におもむいたという話などがつたわっている。

 六月中旬から八月にかけて、龍馬は目下のところ、京坂周辺に暫く潜伏することにしたようで、伝記には「烏丸通四条上ル沢屋」なる処へ寓居した旨が伝えられるし、『愚庵筆記』七月二十三日条には「龍馬に逢う、一円を贈る」と、大坂で樋口真吉に再会したことがみえている。

 「葉を隠すなら森の中」というように、人口のおおいところへ潜伏するのも解らんではないが、わざわざ藩邸の置かれる要地ちかくに潜居する選択自体、いささか奇異に感じないこともない。

 ただし、これも藩主入京にしたがう土佐勤王党同志たちと連絡のためと観れば、危険性という点では兎も角、龍馬の性格上、一応妥当ないし合理的な判断なのかもわからない。

 斯くして、大坂での麻疹流行にともない足どめを食らっていた藩主一行は、八月下旬にようやく入京をとげ、それと相前後するように龍馬は八月(日付不詳)、江戸へ下ることになる。

●『維新土佐勤王史』より
 同年[文久二年]八月、坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ。
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2006.10.23

「いろは」も知らないがふと思った

10.20記【須恵器「水滴」見つかる 西院の発掘調査 役人が使用か】京都新聞電子版
10.19記【平安京跡から謎の巨大池 朱雀大路沿い、南北2カ所で洲浜】京都新聞電子版
10.19記【弥生の「エクスカリバー」 愛媛 垂直に刺さった銅剣出土】京都新聞電子版
10.18記【縄文人の黒髪飾る? 日本最古の木製櫛出土…佐賀・東名遺跡】YOMIURI ONLINE
うえは先週、当方の目についた発掘関係の記事。
先々週日本最古の和歌の断簡が発見されたこととあわせて、今月はなにやら”発掘の当たり月”みたいな観がある。

時代でいえばそれぞれ、縄文時代であったり、弥生時代であったり、飛鳥時代であったり、平安時代であったりと、いろいろバラけているあたりも面白いですが、単純に考えても”史料が増える”ということ自体、なかなか嬉しいことでありますね。

発掘というと、個人的に平成十二年(2000年)のいつぞやにあった、石器捏造事件のことを思いだすんですが、弥生時代以降の発掘となると(縄文時代についてはよく知らない)、断層やら土の性質やらを分析することによって、実質的に「捏造は不可能」だとかどーだとか。

興味という点でいえば、日本史に対する時代的(興味の)上限が、せいぜい古墳時代までな当方。その点、捏造の心配はなさそうでいいんですが、これだけ発見が連続すると、知らない人が見れば「捏造じゃね?」とか思われてるんじゃないかと心配になってみたりもする今日このごろ。

傷跡ってデカいよねー、やっぱ。('A`) >石器捏造事件

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2006.10.14

なにげに『万葉集』だけの問題じゃないなと

10.12記【万葉仮名記した最古の木簡、難波宮跡で出土】YOMIURI ONLINE
ドモ、なにげに見出しを読むなり「(和歌ないし国語史においては)記念すべきの発見じゃね?」とか喜んじゃった松裕堂です。

記事によると、くだんの木簡の年代は640年〜650年と推定されているそうですが、これは舒明・皇極・孝徳の三天皇期にあたるわけで、それってつまり『万葉集』でいうところの万葉歌第一期に該当し、”和歌が文字として確かにのこる”最古級の断簡ってことになりますね。

無論それだけでも充分に価値のあることですが、さらに記事によると木簡は”非略体歌”で書記されているようで、これまで最古とされてきた徳島県観音寺遺跡から出土した木簡(これも非略体歌、推定年代は七世紀後半、万葉集では第二期に該当)とをあわせて、”日本語表記の発展経緯”という問題に、また一波乱ありそうなヨカン。

これまでは柿本人麻呂(万葉集第二期の代表歌人)が、略体歌から非略体歌へと歌の表記を変化させた事実をふまえ、日本語表記の発展経緯もその視点から考察されるむきが強かったわけですが、今回の発見ではその前後関係がやや問題になりそうな雰囲気。

もっとも、今回の発見があくまでも”断簡”である以上、和歌全体の詞章が見通せないという点で、一見非略体歌であるにしてもその構成が音仮名のみによる表記だったのか、あくまでも音仮名を主体する表記(一部に訓読を交えた表記法)であったのかまでは解りませんね。

個人的には今回の発見をうけて「記紀に表記される歌謡の形式(音仮名のみによる表記)こそ、歌の日本語表記という問題において、最初期の形式だったんじゃないのかな」と漠然と思ったりする今日このごろです。とりあえず、太安万侶ないしは稗田阿礼らによる”意識的反映”なんじゃないかと”妄想”す。

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2006.09.11

「恨」とかいうのを思いだす

09.08記【長州と会津、和解へ本格交流】中国新聞
「長州」と「会津」のわだかまりを解消しようと、山口県内の有志が9日、山口市で「会津と長州の友好を考える会」(仮称)を結成する。

いや何となく、この試みには素直に拍手。
この手の対立に関しては、一部の作家や同じく所謂「歴史研究家」と称される人々のうちに、なにやら散々対立を煽っているかの観がありますんで、個人的には「地道かつ有意義な試みじゃね?」とか思ったりする今日このごろです。

立場という点ではいえばお互い、攻める側にも攻められる側にも(長州戦争・会津戦争)なっている藩同士なんで、やっぱ相互理解は大切かと。

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2006.09.06

三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなも隠さふべしや

09.05記【文字刻まれた須恵器出土、福岡県大野城市7世紀の資料】NIKKEI NET
人名とみられる「大神部見乃官」と刻まれた7世紀前半から中ごろの須恵器が出土した

「7世紀前半から中ごろ」というと飛鳥時代。大雑把なイメージすれば乙巳の変(大化の改新、西暦645年)前後を想起すればいいわけですが、今回この発見は「額田部臣」の銘が入った大刀につづく、部民制実証史料の第二例目とのこと。

推定年代が銘入大刀よりさかのぼるわけじゃないので、その点でのみいえば「大発見!」というわけでもないんでしょうが、それでも当然貴重な史料。

ところで、奈良の三輪と福岡県大野城市とでは、距離にしてもかなりのモノがあると思うんですが、当時としてはこういう形態も珍しくはなかったんですかね?

そりゃあモチロン、後代の地方国司(そういえば太宰府の設置も7世紀か)や飛び地の例を想起すれば違和感もないでしょうけど、部民を遠隔地にもつのは統率上かなり非効率な気もする。

ここら辺、ものの書籍でも読めば理解できんのかな?(古代史は疎い)

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2006.08.23

畿内と九州

08.22記【邪馬台国やっぱり畿内?有利な証拠集まる】YOMIURI ONLINE
ドモ、古事記や日本書紀、あるいは万葉集以前になると、途端に興味が半減しだす松裕堂です。いや、秋田にはめぼしい古墳もないですし。
(´・ω・`) 身近ナ興味ヘノ足掛カリガナイ

んで、うえは邪馬台国の所在地について「最近は発掘調査の結果から推して、畿内説の方が有利になりつつありますよ」といった趣旨の記事。

本文を読むかぎり、要は「畿内周辺地域における発掘調査の進展により、当時畿内には広範の諸豪族に影響をおよぼす、強力な豪族がいたと推測される。その強力な豪族というのは所謂邪馬台国のことで、のちの大和朝廷につながる存在なんじゃなかろうか?」といった理屈の由。

説としてはよく聞きますが、やっぱ"邪馬台国"と"大和朝廷”の関連性については、もう少し何か補強材料が欲しいところではありますね。

明確な金石文でも出ない限り、結局結論とて出ないような雰囲気ですが「浪漫を追っているうちが花」という気も当然ながらしますんで、これはこれで面白くはある。

ところで数的にみた場合、機内説と九州説、ドッチの方が支持数って多いんでしょうね。一寸気にならなくもない。

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2006.08.09

厳密には「司馬遼太郎説」ってわけでもないような気がする

08.08記【坂本龍馬は坂本出身? 司馬遼太郎説を裏付け】京都新聞電子版
ドモ、地元の市町村史(『○○町史 別巻資料編(三)』)よると我が家の中世期の先祖は、南部九戸氏の家臣だったらしい松裕堂です。同地方には他にも似たような例の人が何人かいるので、九戸の乱の落人かと思わる。

と、そんな私事はまぁドーでもよいとして、割りかし有名な俗説なので御存知な方も多いかと思うんですが、龍馬の先祖を明智光秀の娘婿 明智左馬助光春として、その名字を近江の「坂本」に求めるという説について書かれた記事が上です。

小説やマンガにも描かれるネタなので”物語”としては面白いんですが、史実性としては縁者の土居晴夫氏がで度々指摘しているように所詮「作り話」の類。

地元の歴史や先祖のことについて調べてゆくと、断片的な資料や情報からでもアレコレ色々な想像が働いちゃうもんですが、そこら辺はあくまでも「夢とロマン」のお話ということで、話半分ないしは伝説といった程度にでも捉えておくのが吉ですかね。

二〜三ヶ月前、自家の過去帳を眺めてたりしていて、ふとそんなことを思ったりもした今日このごろ。気が向いたら戸籍でも調べてみようかと思ったりもする。

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2006.07.21

なんか某ニュースとかぶった観あり

07.11記【蘇峰「未公開日記」で昭和天皇の戦時姿勢を批判】YOMIURI ONLINE
07.22刊【徳富蘇峰 終戦後日記『頑蘇夢物語』】Amazon.co.jp
ドモ、徳富蘇峰の幕末維新史に対する碩学ぶりに、内心で敬意を表している松裕堂です。明治・大正・昭和前期という現在に比べて遥かに限られた出版物や史資料のなか、純粋に「大したもんだ」と思ったりもする。

んで、うえは22日に刊行予定らしい『徳富蘇峰 終戦後日記『頑蘇夢物語』』へのリンクと、それに関連した新聞記事。

一口にいまでは天皇に対する敬意を総して「尊皇思想」(広義や歴史的用語として使う場合「尊王」の文字がむしろ適当かと思う)とかいいますが、歴史的にその構成要素を考えると、今上天皇個人や皇室に対する尊敬や畏敬、所謂「皇祖皇宗」に対する尊敬や畏敬、天皇家のもつ伝統性・文化性に対する尊敬や畏敬、憲法上明記される君主性に対する尊敬や畏敬、神道的祭主・仏教的僧王としての尊敬や畏敬、儒教的王道論(万世一系)の体現者としての尊敬や畏敬などなど、それこそ時代や人によって種々様々。

なかには幕末長州藩の政治路線を評して「孝明天皇の意向に背き、倒幕や過激な行動にはしる長州藩こそ不尊皇」とか仰る人もいらっしゃいますが、この論法を逆に翻すと「徳川慶喜(徳川家の家長)が恭順の意思を示しているにも関わらず、それを無視し抗戦をつづける人々こそ不尊王」(字句注意)とか、似たような理由でもって佐幕派も指弾されかねません。畢竟お互いが時代背景や”家”という概念を無視し、批判のための批判にしかなってない時点で、正直不毛な言い争い。

『愚管抄』や『神皇正統記』や『大日本史』などなど、史書に時折みられる歴代天皇や治天の政(まつりごと)に対する批判理由なんかを読んでいると、それと表裏の関係にある執筆者側の思想的皇祖要素が垣間みれて面白いんですが、くだん蘇峰の日記にも今回はその点が伺えそうな雰囲気で、良くも悪くも個人的には些か感心があります。

先日ふれましたミネルヴァ日本評伝選では、近いうちに杉原志啓氏の筆で徳富蘇峰の伝記も刊行される予定ようで、それについても一寸楽しみにしている今日このごろです。

出来ればもう少し再評価されてもいいんじゃね?>徳富蘇峰

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2006.07.19

伝記を読んでてふと思った。

ドモ、昨日は数ある併読中の書籍のうち、近藤好和氏の『源義経-後代の佳名を貽す者か-ミネルヴァ日本評伝選』を読み終えたばかりの松裕堂です。

ミネルヴァ書房の伝記シリーズ「ミネルヴァ日本評伝選」を、今回わたしは初めて読んでみたわけなんですが、巻末に掲載されている刊行予定リストによると、これからも結構な数の刊行を既に予定しているようで「ロングレンジの視野で、力入れてんだな〜」と、何となく感心した次第です。

現段階で刊行済みの書籍は三十数冊。これからも百冊を越える数の刊行を予定しているようでして、担当執筆者と表題人物との対応も、それぞれ既に決まっている御様子。

歴史書籍の出版事情について全くの無知に等しい当方が思う素朴な疑問なんですが、同レーベルにおける伝記の執筆って、これだけ長い目で早くから計画を建てとくもんなんですかね?

また、取り扱う人物についても、どんな基準にそって決められてるもんなんでしょう?(「当然そんなの会社や担当者の意向によるだろ」っていわれりゃソレまでですが)

正直、同書のあとがきにみえる「伊勢貞丈」という提案が蹴られてことに、微妙な寂しさを感じる今日このごろであります。希少なだけにソッチの方が読みたかった気がする。(´・ω・`)

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2006.07.03

「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」とかな

_img20060703_1
07.01記【「南蛮鉄」の刀 日本の鉄製】NHKニュース
分析が行われたのは、徳川家康から名前を
贈られた初代康継という家康お抱えの
刀かじが作った2本の刀
この康継って、下坂市左衛門康継こと「越前康継」のことでありますな。

ついこのあいだ福井県へいったさい、その顕彰碑を福井市内でみて来たばかりなんですが、その時の写真がこれ右。

五輪塔のまえに居座っている黒猫が微妙にポイント。とりあえず、心中「土方歳三の愛刀であって、沖田総司の愛刀じゃねーけどな」とかツッコンどきました。

ところで佐藤彦五郎館所蔵の越前康継(「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」との銘がある由)の方は成分的にはどうなんでせうね。一寸気にならないこともない。

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2006.06.15

結論を出すのはこれから々々

06.15記【佐々木只三郎の鎖かたびら発見 京で10月に公開 戊辰戦争で着用か】京都新聞電子版
例のごとく旅行五日目。
ちょうど本日は私も京都へ入洛したところなんですが、そこでタイミング良く(?)上記のニュース。

鎖帷子には「左肩に刀で切られたとみられる裂け目が残っている」とかいうことで、伝記に記されたまんまの外傷というわけではない模様ですが、可能性としては何となく高そうなヨカン。

とりあえず、オークション出品者からその来歴を聞いたり、佐々木只三郎と同じ家紋の人が当時旧幕府軍にいなかったのかどうか、そういう線も調べなきゃならんのでしょうが、本人のモノであろうとなかろうと貴重な品ではありますわな。

まずは今後の精査に期待。

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2006.05.28

おじさん、もう心配です。

05.27記【藩主末裔ら集い全国藩校サミット開催】伊那毎日新聞
藩校のあった東北から九州まで24藩の藩主の末裔や藩校関係者をはじめ、地域住民ら総勢400人が参加
参加藩数が二十四藩。その参加数の希少度からいって、我が出身の秋田藩(久保田藩)からはおそらく誰も参加していないとは思うんですが、この手の話を聞くたびに「秋田藩は奥羽列藩同盟の件で、東北諸藩からは村八分にされとらんかな〜。(´・ω・`)」と、今回の件とは関係ないながらも勝手に心配になります(笑)。

今どき、そんな怨み節を自己同一性(アイデンティティー)にしているような人も少ないでしょうが、個人的にはある種の”ネタ”として、そんなことが脳裏をよぎらなくもない今日このごろ。

一部の作家さんのなかには、あきらかにそういう人もいらっしゃるようですが、そのときの諸藩にはそれぞれの事情ってもんがありますし、一概に批難されてもまた困りますわな。

約8年前の記事ですが、コンナ記事を読んでみると、いささか「"恨"って深いよね」とマジ思う。

そうだ、資金に余裕でもできたら『奥羽列藩同盟の基礎的研究』でも買おうかな。('A`)イツノハナシダ

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2006.04.27

城郭の復元

熊本城復元整備事業計画】熊本城公式ホームページ
今朝、視聴していたNHKニュースのいちコーナーで「今お城の復元がブームになっています」みたいなことを、話題として取り上げてました。

番組では熊本城を例に話題をすすめていたんですが、「ブームというからには、熊本城のほかにも復元予定の城郭があるんだよね?」と思い、テレビを視ていたところ、特に熊本城以外については説明もなし。

一応、城郭の復元を望む声や計画案といった程度の話題なら、私もチラホラ耳にした記憶もあるんですが、具体的な計画が進んでいますとか、工事が始まっていますとか、そのレベルの話についてはよく知りません。

個人的に「歴史性の薄い、観光客を呼ぶため程度の中途半端な復元ならイッソの事してくれるな」とか思ったりもするクチなんですが(何処とはいいませんけど、何処とは)、今回の放送を視た限り、件の熊本城の場合は本格的で、一目二目と本当に感心いたしました。

城は加藤清正時代の城郭に復元を予定しているとのことですが、細川藩時代の城郭とではどんな点が違うのか、西南戦争で谷干城が防衛の拠点にした名城だけに、一寸気になったりもする今日このごろ。


あとそれとは関係ないですが、秋田市千秋公園にある久保田城御隅櫓(無論復元、鉄筋コンクリート製、本来と異なる偽装天守構造)をみるたびに、何だかうら悲しくなってしまう当方。なんというか、趣き分が足りませんがな。(´・ω・`)

追伸:城郭復元を計画しているらしい話題リンク
●【「よみがえれ!宇都宮城」市民の会
●【小浜城天守閣復元整備計画
●【史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備基本計画
●【丸亀城の復元整備事業
●【高松城の天守閣の復元
●【「韮山城を復元する会」が初総会 伊豆の国

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2006.04.20

運営改善希望(切に)

04.19記【家老が幕末の秋田藩記録 「宇都宮孟綱日記」を翻刻、県公文書館】さきがけonTheWeb
ドモ、今年に入ってから序々に地元地方史(秋田県史)に興味を強めつつある松裕堂です。

まだ初級レベルを出るに至らないペーペーなレベルですが、マイペースで何とか知識を増やして行こうかと画策中。もっとも、一般史に比べてトッツキにくいのが難点といえば難点。そこら辺は今までの経験知でなんとか。(´・ω・`) シタイ

んで、そんなことを考えている矢先にくだんの記事を発見。個人的にはやっぱ地元の"幕末維新史"はまず第一に押さえておきたいところなんで、購入に向け食指がワサワサと稼働気味です。

なかには費用のことを考え「地元史なら図書館から借りることで済ませれば?」なんて意見もあるでしょうが、当方の住んでいる市の図書館では大抵この手の史資料は"禁帯出"あつかい。

なら次善策として「必要部分だけ図書館コピーすれば?」なんてことも思いつくでしょうが、あいにく我が市の図書館には一般利用が可能なコピー機はなし。つか、筆写でもしろと?>図書館どの

とりあえず、記事の『宇都宮孟綱日記』は年一巻発行(全8巻予定)で5,000円、無理な出費でもないから余計迷う。はてさてどうしたもんでせう。

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そういえば勝海舟の評価も似たような感じだったか

04.19記【「お登勢は女傑」覚書 龍馬のおい、写真裏に記す】高知新聞ホームページ
上の見出しを読んださい「甥は甥でも太郎(坂本直)さんの方」だと思った人、挙手。ノシ

いや高松太郎の場合、龍馬の跡目に入ってる時点で、"甥"というよりも"養子"ということになるわけですが、記事にするさいのイメージとしてとりあえずそう思いました。

んで、記事を御覧いただければ解りますが、実際に写真裏に記したという人物は坂本直寛(自由民権家、高松太郎弟、坂本権平養子)の方です。

私は無知ゆえに、龍馬にまつわることを坂本直寛が直接言及しているという例をまず知らないんですが、今回の記事はお登勢が坂本家にどのように認識されていたのかが伺えて、個人的には嬉しいような微笑ましいような、まぁソンナ感じです。

くだんのお登勢の写真って、西郷隆盛に撮影を勧められたので嫌々ながら撮影したモノ、なんて話を耳にしますが、それが事実だとすると撮影後わざわざ坂本家にも贈って寄こしたということになるんでしょうかね?

とりあえず、そんなことが一寸ばかり気になりました。

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2006.03.29

つぎは『浦上キリシタン流配事件』でも読むか

03.27記【重い課題 史跡破壊で不協和音】長崎新聞
ドモ、たまたま現在併読している書籍のなかに神田千里氏著『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起 中公新書』があったりする松裕堂です。

個人的に島原の乱というと、連想するのが「魔界転生」だったり、「サムライスピリッツ」だったりと、"創作のネタになりやすい事件"という印象が強い今日このごろ。とりあえず「OVA版魔界転生のつづきってまだ〜?」なんて、楽しみにしていた時期がオレにもありました。

んで、上記の長崎新聞の記事ですが有馬晴信関係ということで、なんとも微妙にタイムリー。部外者の歴史好きが身勝手にも抱いた初感としては「何しとんじゃー!このオマヌケさんがー」という罵詈が正直なところ。


ある町の職員は「法的なものも含め、問題を引き起こした関係者に責任を取ってもらうのは大前提。だがこれで日野江城跡の知名度は原城跡並みに上がった」と自嘲(じちょう)気味に語る。
さすがに瞬間的すぎてソレはないっしょ・・・。
史跡破壊って事実自体、延々長々とのこることでしょうけど。('A`)

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つぎは『浦上キリシタン流配事件』でも読むか

03.27記【重い課題 史跡破壊で不協和音】長崎新聞
ドモ、たまたま現在併読している書籍のなかに神田千里氏著『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起 中公新書』があったりする松裕堂です。

個人的に島原の乱というと、連想するのが「魔界転生」だったり、「サムライスピリッツ」だったりと、"創作のネタになりやすい事件"という印象が強い今日このごろ。とりあえず「OVA版魔界転生のつづきってまだ〜?」なんて、楽しみにしていた時期がオレにもありました。

んで、上記の長崎新聞の記事ですが有馬晴信関係ということで、なんとも微妙にタイムリー。